私の家族は両親と姉、弟、祖父の6人家族です。家族が6人ということは年に6回家族の誕生日会を開くのですが、その時のわが家の祝い方が3つあります。1つ目は、習字で「おめでとう」と書いてはるのです。これを書くのは中学生の姉の役目です。すみと紙を出してきて、すらすら書いてくれます。二つ目は、手作りケーキを作ることです。このケーキ作りは、家族で買い物に行くところから始まります。でき上がりを想像して、材料をそろえます。「どんなケーキなら喜ぶかな。」と考えながら作ることはワクワクします。ケーキは誕生日の夕食が終わった頃に出すのででき上がりを逆算して作り始めます。かざりつけは、弟と姉が相談して決めます。三つ目は、家族そろって歌のプレゼントをすることです。ろうそくの火をともしながら、みんなで歌って誕生日会をもり上げます。私は、小さい頃からずっと続いているわが家の誕生日会を毎回楽しみにしてきました。
しかし、この誕生日会ができない年がありました。それは2011年3月11日、そうです。あの大震災があった年です。私の父は、自衛隊に勤めています。震災があった日、父は仕事に行っていました。幸い家の方は物が落ちたくらいですみ、家族はみんな無事でした。しかし、父はこの日は家に帰らず、母の話では、こわれた家の復旧工事にあたっているということでした。大きな余震が続く中、父がいないのはとても不安で、私は足の震えが止まりませんでした。ちょっと声をかけられたら、「わっ」と泣き出してしまいそうでしたが、母にも心配をかけると思い、必死でこらえました。
テレビで見ると。大津波の様子が映し出されていました。自衛隊や警察、消防の方たちが必死に作業をしていました。父も、今この時がんばっているのだと思うと私も祖父や母の力にならなくてはと思いました。めそめそしている場合ではなかったのです。
ほどなくして父は福島を離れ、宮城県の石巻という所に津波の復旧作業に向かいました。それが一段落すると、次は原発の復旧作業にあたったそうです。父は、一度仕事に向かうと数日は家に帰らず、それは半年間も続きました。毎年祝ってきた一家での誕生日会も父の不在が多くなったためにできなくなってしまいました。父の体のこと、家族がそろわないことに対して、私はただただ不安で悲しむことしかできませんでした。
父が不在が続き、私の誕生日が近づいたある日、私は母に「みんなで誕生日会ができたらいいのに。」と言いました。すると母は、父のことを話してくれました。津波の被害にあった所の荒れ果てた姿にショックを受けたこと、特に子どものランドセルや文房具を見ると悲しさが倍になったと言います。しかし、作業にあたっているときに、その土地の人々に励ましを受け、特に小学生や幼稚園の子どもたちから「自衛隊さん、がんばってね。」と言葉をかけてもらうと、家に残してきた私たち3人の子どもたちと重ね合わさって、「これからの世の中を背負っていく子どもたちのためにやらなければならない。」と思ったそうです。家に帰れないことは家族にすまないと思いながらも、家に残してきた3人の子どもには、相手を思いやる優しい心を持ってほしいから、もう少し待ってほしいと話していると聞きました。私は母からの話を聞いて、父のことがとても誇らしく思えました。今はさみしさに負けないで父の帰りを待とうと思いました。
半年がたち、ようやく作業が一段落して父が帰ってきました。「ただいま。」と言った父はとても疲れているようで、その日はあまり話もせずにねてしまいました。次の日、やっと家族がそろいました。父は仕事のことはあまり口にはしませんでした。私にとっての父は厳しい人で、時々いやだなと思うことがありました。しかし、母の話や父の姿から、父の私たちへの思いを知ることができました。それがなかったら私はただ、「父はこわい人。」と思っていたかも知れません。何事にも負けずやり通す父の姿は、私に力を与えてくれました。
それまでは、少し引っ込み思案だった私ですが、6年生になり、剣道を始めました。水泳や陸上の大会では一生懸命練習し、リレーの選手に選ばれました。つらい時もあるけれど目標を持ってがんばっています。今の自分にできることは、1日1日を大切に過ごし、将来は父のように人のために尽くせる人になることです。
今年のわが家の誕生日会はいつも通り開かれています。今まで当たり前だと思っていたことが当たり前でなくなることもあることを知ったとき、この誕生日会がかけがえのないものだと思えてきました。ささやかではあるけどれど、ずっと続くことを願っている私です。