金栗四三(かなぐり しそう)は1911年、
翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、
当時の世界記録を27分も縮める大記録を出し、日本人初のオリンピック選手となる。
翌、1912年の第5回ストックホルムオリンピックでは、
北欧の大会にもかかわらず異常気象のため40度近い猛暑に襲われ、
68人中34人が棄権するというサバイバルレースになってしまい、
レース途中で日射病で意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。
その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝であった。
金栗は日本の期待を一心に背負いながら、走りきれなかったことで、
深い自責の念に駆られた。
それでも日本マラソン界の発展のために50年間尽くし、
日本における「マラソンの父」と称された。
1967年、ストックホルムオリンピック委員会から
「オリンピック55年祭」が開催されるので来てもらえないか。
「あなたはマラソン競技で行方不明になったままなので、
ゴールしに来てください。」という連絡が届いた。
ストックホルムオリンピックでは金栗は棄権の意思がオリンピック委員会に
伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。
記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていた
オリンピック委員会がこれに気付き、
まだ現在、【競技中】である金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。
招待を受けた金栗(75歳)はストックホルムへ赴いた。
そこには観衆と役員、そしてゴールテープ。
その粋なはからいに応え、金栗はスーツ、ネクタイ、コート
といういでたちで競技場をゆっくりと走って、
55年前にたどり着けなかった思い出のスタジアムで念願のゴールテープを切った。
するとアナウンスが流れた。
「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、
これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します。」