学校日記

第1回 「校長講話」 7月3日(火)

公開日
2012/10/03
更新日
2012/10/03

校長講話より

〜はじめに〜

 ロンドンオリンピックが、近づいてきました。(7月27日〜)

 さて、「この人は、だれだかわかりますか?」 ※写真の提示

 この人は、「円谷幸吉」といって、今から48年前に行われた「東京オリンピック」でマラソン選手として、銅メダルを取った人です。

 生まれたところは、福島県の須賀川市…私たちと同じ福島県人です。
1940年生まれですので、生きていれば、72歳です。

 この時代というのは、日本が戦争に負けて、国を立て直すのに国民が1つになってがんばっていた時代でした。新幹線が走ったり、大きなビルが建ち並んだり、日本中が活気づいていた時代でした。
 「東京オリンピック」というのは、日本人の底力を世界中に示すことのできる大きなチャンスだったんですね。

 ただ、期待されていた陸上競技は、あまりパットせずメダルなしで最終日を迎えます。

優勝したのは、エチオピアの「アベベ・ビキラ」という選手で、2時間12分11秒。当時の世界最高記録で金メダルを取りました。2位には何と、4分8秒の差を付けて勝っています。

 男子マラソン代表は、3人いたのですが、円谷選手(当時24歳)は、あまり期待されていませんでした。

ところが、期待されていた2人の選手が脱落する中、円谷選手は、ゴールの国立競技場に、何と2番目に戻って来ます。
 しかし、そのすぐ後ろに、イギリスの「ベジル・ヒートリー」選手が迫ってきていました。ふつうは、後ろを振り向いて、差を確かめて逃げ切ることができるのですが、円谷選手は、振り向きませんでした。

 なぜ、振り返らなかったかというと?(わかる?)

 厳しいお父さんの教えを守ったからです。
 円谷選手は、ある競技会で後ろを振り向いてお父さんに怒られます。

「男なら、決して後ろを振り返るようなことはするな!」 今では、考えられません。

 そのため、円谷選手は、残り150mのところで、ヒートリー選手に抜かれて3位でゴールしました。銅メダルに終わりましたが、陸上競技では、たった1つのメダルだったので、日本中が大騒ぎをしたといいます。

 そして、次は「金メダルですね」と大きな期待をかけられてしまいます。
 ところが、厳しい練習で、腰を痛めたり、足をけがしたりして、円谷選手は、走れなくなってしまいます。そして、とうとう「父上様、母上様、幸吉はもう、すっかり疲れ切てしまい走れません。」という手紙を残して、28歳という若さで自殺してしまいます。

 円谷選手のライバルであった君原選手は、なくなる少し前に円谷選手が話していた言葉を覚えているそうです。

「私は、国民の前で、ヒートリー選手に抜かれて、申し訳無いことをした。そのお詫びに、メキシコオリンピックに出て、もう1度、日の丸を揚げることが、私と国民との約束なんです。」(今では、考えられません...)

 円谷選手と接した人は、口をそろえてこういうそうです。「まじめ」「責任感が強い」「礼儀正しい好青年だった」と。

例えば、強化合宿で風呂に入るとき、脱いだ服をきちんとたたんで、風呂から上がった時、着る順番を考えて、服をそろえてから入ったそうです。

 円谷選手、今生きていれば、72歳です。「物をそまつにしない」「苦労にじっと耐える」「がまん強い」

 その生き方、考え方は、今でも語り次がれています。そして、多くの日本人の心の中に生き続けているものと思います。

 みなさんも、自分の生き方、それぞれの生き方について、考えてみたいものです。


【伝えたいこと】円谷幸吉から、人としての生き方を学ぶ。
キーワード…「忍耐」とは、つらいこと苦しいことを堪え忍ぶ「がまん強く生きること」