記事

ふるさとは「蚕都」と呼ばれる

公開日
2015/06/02
更新日
2015/06/02

教育長の部屋

 「その昔、私たちの町は蚕都と呼ばれていました。」
 泉原の養蚕展示室のオープンにあたってのキャッチフレーズです。展示室にある多種多様、様々な道具がふるさとの先人が養蚕を大切にし、生活の糧としてきたことを物語ます。ひとつひとつの道具が私たちの先祖が実際に使ってきたものです。道具によっては、粟野村○○、上保原○○と氏名があります。私は、「誰誰のひいじいちゃんではないの?」などと、同行の人と話します。そうかもしれないという話にもなりますが、私の知人はその道具に記された名前と姓が一致、そして名前の中の漢字を知人も使っているのです。きっとそうだと確信します。
 明治の始め、横浜から輸出された生糸の産地とその量、金額が記録された資料の中に「掛田」の名前があります。先人の頑張りは日本の外貨獲得の貴重な輸出品となっているのです。富岡製糸工場は世界遺産に登録されていますが、その富岡製糸工場が円滑に動く下地を作ったのは私たちの先祖です。
 先人の頑張り、努力に思いを馳せたとき、私たちは勇気とパワーが湧くのです。